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1973.11.17
日本ハム球団株式会社設立※タップして拡大することができます
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1981.9.23
パ・リーグ後期優勝※タップして拡大することができます
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1981.10.13
パ・リーグ優勝※タップして拡大することができます

後楽園球場時代

日本ハムの創業者・大社義規氏の熱意がファイターズ誕生の礎となった。1973年11月19日、日拓ホームフライヤーズを買収。初代オーナーに就いた。一般公募で選考し球団名は日本ハムファイターズに決定。翌年から初代の球団社長に三原脩氏、監督に中西太氏が就任して船出した。1981年には大沢啓二監督の下、後期優勝を果たしてプレーオフでロッテオリオンズを撃破。東映フライヤーズ以来、19年ぶり2度目のパ・リーグ制覇を果たした。スーツ姿で胴上げされた大社氏は「次はユニフォームで胴上げしてもらいたい」と願いを込め、背番号「100」のユニフォームを自作していた。オーナーとして異例の野球殿堂入りを果たし、球団への思いが溢れた「100」は、球団で唯一永久欠番となった。
東京ドーム時代

低迷に苦しみ、不遇の時代だった日本初のドーム球場として開場した東京ドームを読売ジャイアンツと分け合う形で本拠地として16年間使用した。その間、パ・リーグのAクラスは5度だけでペナントレースを制することは1度もできなかった。この時代には監督を7人が務めて打破を図り、西崎幸広選手や田中幸雄選手ら個性あふれるスター選手は生まれたがチームとして結果を残すことができなかった。2002年7月に、2004年から本拠地を札幌ドームへ移すことが正式決定。翌年8月に球団を運営する株式会社北海道日本ハムファイターズを設立した。
ヒルマン監督時代

札幌ドームへの本拠地移転前年から指揮を執ったトレイ・ヒルマン監督が、北海道日本ハムファイターズの原型を築き上げた。移転元年に新庄剛志選手が入団して、低迷を続けていたチームが劇的に変化した。2006年に25年ぶりにパ・リーグのペナントを勝ち取ると、日本シリーズでは中日ドラゴンズを下した。前身の東映フライヤーズの1962年以来、44年ぶり日本一の快挙を成し遂げた。新庄選手が現役引退後の翌年には、若き大黒柱のダルビッシュ有投手の躍動などで球団史上初のパ・リーグ連覇を達成した。北海道での球団史がドラマチックに動き出す源流になった。
梨田監督時代

難局を託されたのが、梨田昌孝監督だった。2年連続でパ・リーグを制したチームを引き継ぐことになり、上位が宿命づけられた使命と懸命に向き合って結果を残した。稲葉篤紀選手と金子誠選手、田中賢介選手、武田久選手ら主力をうまく活用しながら、投手から転向した糸井嘉男選手を開花させるなど見い出した新戦力と融合。初代オーナー大社義規氏が野球殿堂入りした記念すべき2009年には2年ぶりにペナントを奪回した。常勝球団へと進むための転換点を、緻密なハンドリングで舵取り。北海道に完全に根付くために、ファイターズにとって重要な時代だった。
栗山監督時代

栗山英樹監督は球団史上最長10年間指揮を執り、球団歴代監督最多684勝を積み上げた。就任1年目の2012年にパ・リーグ制覇、2016年には最大11.5ゲーム差から逆転しての奇跡的な4年ぶりのリーグ優勝を果たして10年ぶり日本一まで上り詰めた。2013年に入団した大谷翔平選手は投打で成功する可能性を信じて、球団全体で育成に尽力。世界を代表するプレーヤーへ導いた。中田翔選手を4番起用で固定して覚醒するなど、個性豊かなスター選手が多く生まれた。若手スター候補も台頭し、エスコンフィールドHOKKAIDOへとつながるベースが築かれた。
新庄監督時代
