
ファイターズ50周年を記念して、エスコンフィールドHOKKAIDOに新ウォールアートが完成しました。
ファイターズ創業オーナーである大社義規氏にはじまり、
その50年の歴史をつないできたレジェンド監督・レジェンド選手が描かれています。
エスコンフィールドHOKKAIDO 1Fのクラフトビール醸造レストラン「そらとしば by よなよなエール」の
壁面にてご覧いただけます。
大社義規(おおこそ よしのり)


日本ハム創業者で、一代で食品加工のトップメーカーの座を築いた。1973年に売却を検討していた日拓ホームフライヤーズから球団を譲渡されて初代オーナーに就任。自身の背番号「100」は球団で唯一の永久欠番。2009年には野球殿堂入りを果たした。
大社啓二(おおこそ ひろじ)


1996年から2002年まで日本ハム株式会社の社長を務め、2004年、北海道移転を球団会長として主導。地域密着球団を推進する旗振り役となった。2005年に球団オーナー、2012年に同オーナー代行を歴任し、2016年に退任。
三原脩(みはら おさむ)


1934年、大日本東京野球倶楽部(現・巨人)にプロ契約選手第1号として入団。現役引退後は、複数球団で監督を務め、1973年に初代球団社長に就任。1981年にリーグ優勝、1983年に野球殿堂入り。
中西太(なかにし ふとし)


高松一高時代から「怪童」と呼ばれ、1952年、西鉄に入団。
翌年には史上最年少でトリプルスリーを達成した。1969年に現役引退。1974年、初代監督に就任。初代球団社長の三原脩は、義父にあたる。
大沢啓二(おおさわ けいじ)


1956年、南海に入団。1965年、東京(現・千葉ロッテ)に移籍し、現役引退。1976年、監督に就任し、1981年、初のリーグ優勝に導いた。愛称は「大沢親分」でファンから絶大な支持を受けた。
柏原純一(かしわばら じゅんいち)


1978年に南海から移籍して1年目から大活躍。特長の打撃、豪快なプレースタイルで人気を博した。1981年に主軸としてファイターズ初のリーグ優勝に貢献。後年は指導者、編成担当などでチームを支えた。
田中幸雄(たなか ゆきお)


1986年入団。現役引退するまで一筋22年間在籍し「ミスター・ファイターズ」の愛称で親しまれた。2006年に日本一に貢献。ユニホームを脱いだ2007年、生え抜きでは球団史上初の2000本安打を達成。
新庄剛志(選手)(しんじょう つよし)


阪神、メジャー複数球団を経て2004年に入団。ファイターズが北海道に誕生して以来、規格外のパフォーマンスや言動、無類の勝負強さで魅了した。「記録」ではなく「記憶」に残るプレーで2006年の日本一を置き土産に現役引退。
小笠原道大(おがさわら みちひろ)


1997年入団。豪快なフルスイングが代名詞で首位打者2度など数々のタイトルを獲得。希代のバットマンとして、絶大な人気を誇った。2006年にはパ・リーグMVPの活躍でリーグ優勝、日本一の快挙を支えた。
稲葉篤紀(いなば あつのり)


2005年に移籍して入団。翌年の日本シリーズでは勝負強い打撃で頂点へ導き、MVPに輝いた。北海道移転後を支えたキーマンで、札幌ドームでは「稲葉ジャンプ」と呼ばれる名物応援スタイルで絶大な支持を受けた。
ダルビッシュ有(ダルビッシュ ゆう)


2005年ドラフト1位で入団。翌年12勝をマークし、日本一の立役者となった。2007年に沢村賞など在籍7年間で数々のタイトルを獲得し、残したインパクトも衝撃的でファイターズ史上最高の投手との呼び声が高い。
大谷翔平(おおたに しょうへい)


前代未聞の二刀流に挑戦して在籍5年間で規格外の伝説を築いた。入団4年目の2016年に投打で日本一へけん引。2018年に米球界へと渡り、ア・リーグMVP2度など世界を席巻し続ける、ファイターズにルーツを持つ世界最高峰のプレーヤー。
トレイ・ヒルマン


2003年、球団初の外国人監督に就任。北海道移転元年は3位に終わったが、3年目の2006年に25年ぶりのリーグ優勝、44年ぶり日本一へ導いた。翌年には球団史上初のパ・リーグ連覇を遂げた。
梨田昌孝(なしだ まさたか)


1972年に近鉄に入団し名捕手として鳴らした。2000年に近鉄の監督に就任。2004年シーズンで球団合併によって消滅した同球団最後の監督となった。2008年に監督に就任し翌年にリーグ優勝。
栗山英樹(くりやま ひでき)


1990年に現役引退しスポーツキャスターなどを経て2012年に監督に就任した。同年にパ・リーグ制覇。2016年に自身2度目のリーグ制覇、10年ぶり日本一を果たした。2021年まで球団史上最長の10年間指揮を執った。
新庄剛志(監督)(しんじょう つよし)


2022年、登録名を「BIGBOSS」として監督に就任して16年ぶりに復帰。札幌ドーム最終年の指揮を執った。エスコンフィールドHOKKAIDO開業元年の2023年には「新庄剛志」に登録名を変更して心機一転。若手を積極的に起用するも2年連続の最下位に終わった。